人生の価値とは
お金を手にしても、
人生のゴールには
着かなかった。
その先で残った問いから、
今の意’sは
生まれています。
人生の価値について、考えたことはありますか
私は長い間、
お金を手にすることが
人生の成功だと
思っていました。
もっと稼げば、
自由になれる。
成功すれば、
人生は満たされる。
そう信じて、
本気でそこを目指しました。
そして実際に、
経済的には
大きな成功と呼べる
状態を
一度手にしました。
ところが、
その瞬間に起きたのは、
想像していたような
達成感では
ありませんでした。
ゴールへ着いた
感じがしない。
むしろ、
妙な空白がありました。
あれほど欲しかったものを
手にしたはずなのに、
人生が完成した
感じがしない。
そこで初めて、
私の中に一つの問いが
生まれました。
では、
人生の価値とは
何なのだろう。
お金を手にしたとき、幻想が崩れた
昔、
「お金は価値と価値を
交換するためのものだ」
という趣旨の言葉を
聞いたことがあります。
誰の言葉だったのかは、
もう覚えていません。
でも、
大きなお金を手にした時、
その言葉の意味を
初めて自分の人生で
感じた気がしました。
お金そのものを
増やすことが、
人生の価値なのではない。
だとしたら、
そのお金と交換されている
「価値」とは何なのか。
この問いは、
後に私の人生が
崩れていく時にも
何度も戻ってきました。
楽しかったプロモーションが、できなくなった
私は、
プロモーションを
学ぶことが
大好きでした。
新しい仕組みを
知るたびに、
ビジネスの裏側を
一枚ずつ
めくっているようで、
とにかく面白かった。
特に好きだったのが、
言葉です。
私は、
文字に想いを載せることが
得意でした。
レターを書く。
一つの文章で、
読んだ人の感情が動く。
興味が生まれる。
行動が変わる。
私自身、
「レター一つで
人生が変わった」
と言っても
大げさではないほど、
この世界に没入しました。
最初は、
本当に楽しかったのです。
ところが、
扱う金額が大きくなり、
プロモーションの規模も
大きくなるにつれて、
私の中に摩擦が
生まれ始めました。
何を売るのか。
なぜ、
それを売るのか。
その商品を買った人の
人生は、
本当に豊かになるのか。
売上が上がるほど、
この問いが
強くなっていきました。
欲しいものと、必要なものは同じなのか
マーケティングでは、
相手が欲しいものを
提供することが
とても大切です。
これは間違っているとは
思いません。
欲しいものがある。
そこに商品がある。
価値を感じた人が買う。
それ自体は、
普通の価値交換です。
けれど、
私自身の中では
別の問いがありました。
人が今すぐ欲しいものと、
その人の人生に
本当に必要なものは、
いつも同じなのだろうか。
私は自己啓発を
教えていた時、
「欲しいものと
必要なものは
違うことがある」
という話をしていました。
なのに、
自分の仕事では、
目の前の欲求を広げて
購入につなげることへ
どんどん比重が
移っていった。
言っていることと、
やっていることが、
自分の中で
ぶつかり始めました。
当時、
私が学び、実践していた
プロモーションの
中には、
まず本人が感じている
痛みや不満を明確にし、
その問題を強く
自覚してもらい、
商品を解決策として
提示する流れが
ありました。
さらに購入後、
次の商品へ
進んでもらうために、
別の欲求を広げることも
あります。
その方法自体を、
ここで善悪に
分けたいわけでは
ありません。
私自身も、
価値があると思う商品を
真剣に販売していました。
ただ、
私の中では次第に、
一つの違和感が
消えなくなりました。
目の前の欲求は
満たせても、
その人の人生そのものは
変わらないかも
しれない。
それを分かっていながら、
私は何をしているのだろう。
売れなくなったのではなく、売れなくなっていった
少しずつ、
行動できなくなりました。
セールスが嫌になっていく。
レターを書くことも、
以前のようには楽しくない。
プロモーションを考えても、
心のどこかで止まる。
「これは、本当に必要なのか」
「この人の人生に、何が残るのか」
その問いが出るたびに、
以前のように
アクセルを
踏めなくなりました。
そして私は、
何年もの間、
ほとんど筆を置きました。
言葉を書くことが
嫌いになったわけでは
ありません。
むしろ、
好きだったからこそ、
何のために使うのかが
分からなくなった。
今振り返ると、
私の人生が崩れていった理由は
一つではありません。
ただ、
この「価値」に対する摩擦は、
大きな要素の一つだったと
思っています。
では、本当の価値とは何なのか
その後の私は、
いろいろなことを試しました。
仕事を変える。
環境を変える。
国を変える。
人と出会う。
新しいものを学ぶ。
それでも、
何をしても
「これじゃない」
という感覚が
残る時期がありました。
やってみる。
でも違う。
また探す。
また違う。
それを何年も
繰り返しました。
私は、その感覚を
ごまかしながら
進んでいたのだと
思います。
「なんとなく違う」
「これではない気がする」
「本当は、別のことをしたい」
そういう自分の
内側の反応より、
頭で考えた正解を
優先していました。
結果として、
負のループは
長く続きました。
私の場合、
およそ八年です。
今なら、
あの違和感は
邪魔だったのではなく、
自分の人生から
離れていることを
知らせていた可能性も
あると思えます。
もちろん、
これは私自身の人生を
振り返った
今の仮説です。
個性が違うなら、価値の形も違う
人には個性があります。
得意なことも違う。
苦手なことも違う。
心が動くものも違う。
同じ仕事をしても、
夢中になる人と、
苦しくなる人がいます。
同じ場所へ行っても、
何も感じない人もいれば、
なぜか涙が出るほど
心が動く人もいる。
この違いには、
何か意味があるのではないか。
私はそう考えるように
なりました。
日本語の「性」は、
「さが」と読むことが
あります。
辞書では、
生まれつきの性質、
持って生まれた性質という
意味が示されています。
ここまでは言葉の意味です。
そこから先は、
私自身の探究です。
もし人に、
生まれ持った違いが
あるのなら。
その違いには、
人生の中で
使われる場所が
あるのではないか。
意味のない個性として
偶然そこにあるのではなく、
その人だからこそ
感じること、
その人だからこそ
気づくこと、
その人だからこそ
形にできるものへ
つながっているのでは
ないか。
私は今、
そう考えています。
人生のテーマという仮説
ここからは、
さらに私自身の
仮説です。
人にはそれぞれ、
人生を通して
何度も戻ってくる
テーマのようなものが
あるのではないか。
何度離れても気になる。
なぜか同じ問いへ戻る。
うまく説明できなくても、
そこへ意識が向く。
私の場合、
それが
「人生の構造を
紐解くこと」でした。
成功していた時も。
崩れていた時も。
海外にいた時も。
何も書けなかった時も。
結局、
人はなぜこうなるのか。
なぜ同じことを繰り返すのか。
何があれば、
本当に豊かな人生へ
近づけるのか。
その問いへ戻っていました。
バラバラだった
人生の出来事を
長い時間をかけて
並べ直すと、
一つや二つではない
大量の根拠が
同じ方向を指している
ように見えた。
だから今の私は、
これが自分の
人生のテーマなのだと
かなり強く感じています。
ただし、
これを誰にでも
同じように当てはめる
つもりはありません。
あなたには、
あなたの人生があります。
だからこそ、
本人の人生から
確かめる必要がある。
それが意’sで
「観測」を置いている
理由の一つです。
愛を目指すことへの、私の違和感
お金について探究していると、
「お金はエネルギーだ」
「お金は循環だ」
「愛の循環がお金になる」
という考え方に
出会うことがあります。
私は、
その考えを
否定したいわけでは
ありません。
むしろ、
理解できる部分もあります。
それでも長い間、
「愛を与えよう」
「愛を広げよう」
という言葉には、
なぜか少し
抵抗がありました。
なぜだろう。
今も探究の途中ですが、
一つ思っていることが
あります。
愛そのものを目的にして
頑張ろうとすると、
私にはどこか
不自然に感じるのです。
「愛を与えなければ」
そう思った瞬間、
それは役割や使命になり、
時には自分を
縛るものにもなる。
その奥に、
「愛されたい」
「愛が足りない」
という欠乏が
隠れていることだって
あるかもしれません。
少なくとも、
私自身には
そういう違和感が
ありました。
イメージすることと、イメージが湧くことは違う
私の中では、
この違いが
とても大きいです。
何かを一生懸命
イメージしようと
することと、
自然にイメージが
湧いてくることは、
似ているようで違います。
愛も同じなのではないか。
愛する人になろうと
頑張るのではなく、
自分の人生を生きた結果、
その在り方から
自然に何かが伝わる。
後から振り返ったら、
そこに愛があった。
私には、
その方がしっくりきます。
人生のテーマの中で、
自分が本当に
大切にしたいものを
満たす。
そこで感じたものを、
自分なりの形にする。
そして、
それを誰かへ渡す。
結果として、
受け取った人の中に
何かが生まれる。
それが、
愛と呼ばれるものに
つながることも
あるのかもしれません。
私にとっての「人生の価値」
今の私にとって、
人生の価値は、
お金の量では
ありません。
肩書でもありません。
何人に知られているか
でもない。
自分の人生に
何度も現れるテーマを、
どれだけ生きられたか。
そこで、
どれだけ感じたか。
どれだけ探究したか。
そこから
生まれたものを、
どれだけ誰かへ
渡せたか。
今は、
そこに価値を感じています。
だから、
毎日長い時間
この探究を続けても
苦になりません。
気づけば何時間も経っている。
休むことを忘れるほど
夢中になっていることも
ある。
「やらなければならない」
ではなく、
「もっと知りたい」
が先にある。
私は、
この状態そのものが
人生を生きている感覚に
近いのではないかと
感じています。
価値は、共鳴して広がる
例えば、
一人のクリエイターが
自分の世界を作ります。
音楽でもいい。
絵でもいい。
映画でもいい。
文章でもいい。
本人は、
自分の中にあるものを
形にしている。
その作品に触れた誰かが、
心を動かされる。
元気になることもある。
涙が出ることもある。
自分の人生を
もう一度考えることもある。
作った人の
人生のテーマから
生まれたものが、
別の人の人生に届く。
私は、
これが
「価値が広がる」
ということの
一つの姿なのでは
ないかと思っています。
そして、
受け取った人が価値を感じ、
その対価としてお金を渡す。
そう考えると、
お金は価値そのものでは
なく、
価値が人と人の間を
移動した後に生まれる
一つの交換手段として
見えてきます。
これは、
今の私にとっての見方です。
だから私は、意’sをこの形で届けたい
私は、
この人生の構造には
とても大きな価値が
あると思っています。
自分自身が、
長い時間迷い、
痛みを持ち、
何度も失敗し、
何度も探し直した先で
形になってきた
ものだからです。
そして、
一般的なコーチングや
カウンセリング、
一つの悩みを解決する方法と
優劣を競いたい
わけでもありません。
見ている場所が違う。
目の前の一つの枝だけでは
なく、
その選択が
どこから生まれ、
何が繰り返され、
どんな本意が残り、
その人の人生が
どちらへ向かおうと
しているのか。
できるだけ風上から、
人生そのものを
見ようとしている。
私は、
そこに大きな違いが
あると思っています。
だからといって、
「価値が高いから
高額に売る」
とは考えていません。
むしろ逆です。
過去の私のように、
人生に迷っている人。
心の痛みや悩みを
抱えている人。
何を選べばいいのか
分からない人。
頑張っているのに、
なぜか同じところへ
戻ってしまう人。
この考えに至ったのは、
机の上で考えただけでは
ありません。
私は実際に、
いくつもの国で暮らし、
その土地の人たちと
接してきました。
文化が違う。
宗教が違う。
生活の仕方も違う。
価値観も違う。
それでも、
人が抱えているものを
近くで見ていると、
日本にいた頃と
何も変わらないと感じる
瞬間が何度もありました。
人間関係で悩む。
仕事で迷う。
お金で苦しむ。
自分が何をしたいのか
分からない。
頑張っているのに、
なぜか満たされない。
国が変わっても、
人が人生の中で抱える
迷いや心の痛みには、
驚くほど重なるものが
ありました。
そして意’sの構造を作る中で、
私は改めて
世界の現状も調べました。
WHOの推計では、
2021年時点で
世界のおよそ11億人が
精神疾患を
抱えていたとされています。
これは、
診断されるほどの状態だけを
数えた数字です。
人生に迷っている人。
自分が分からなく
なっている人。
同じことを
繰り返している人。
心の痛みを抱えていても、
医療の統計には
入らない人。
そこまで含めれば、
この問いは
一部の人だけのものでは
ない。
私は、
自分が世界を歩いて
見てきたことと、
調べて見えてきた現実が、
ここで重なりました。
だからこそ、
意’sを一部の人だけが
手にできるものには
したくありません。
過去の私のような人が、
世界のどこにいても、
まず一歩、
自分の人生を見てみる。
その入口を、
できるだけ広くしたい。
それが、
私が今この仕組みを
作っている理由の一つです。
価値の連鎖を、一緒につくれたら
私には、
まだやりたいことが
たくさんあります。
しかも、
もう考えているだけでは
ありません。
今の意’sを、
もっと具体的に、
もっと分かりやすく、
実際に人が
変化を体感できる構造へ
していく。
その先の仕組みも、
すでに考え始めています。
私はずっと、
SoraNoOtoを
一つの商品だけで終わる
事業として
考えてきませんでした。
人が自分の人生を知る。
自分の価値を生きる。
そこで生まれたものを
誰かへ渡す。
また別の価値が生まれる。
そんな循環そのものが、
一つの新しい生態系のように
つながっていく未来を
見ています。
そして、
私はもう一つ、
これからの時代について
考えていることがあります。
ここからは、
私自身の未来仮説です。
もし今後、
人類が地球外生命や、
今までの常識を
大きく揺らすような事実と
公に向き合う時代が来たら。
それは、
ただ
「すごいことが起きた」で
終わらないと思っています。
今まで、
目に見える現実だけを
前提に生きてきた人ほど、
自分が信じていた
世界の土台そのものを
問い直すことになるかも
しれません。
私は、
それが本当に起きるのか、
いつ起きるのかを
断定するつもりは
ありません。
ただ、
もしそういう時代が来るなら、
外側の情報が増えるほど、
自分の内側に戻る座標が
必要になると思っています。
これは、
今のスピリチュアルな
探究にも似ています。
「今までの現実だけでは何か違う」
と感じた人が、
答えを求めて
たくさんの情報や方法を
探し始める。
けれど、
外に答えを探し続けるだけでは、
また別の迷いが
生まれることがあります。
だから私は、
何を信じるかを
決める前に、
自分の人生から
確かめる構造が
必要だと思っています。
そして、
もう一つ大きいのがAIです。
AIが進化すればするほど、
考える作業の多くは
AIへ渡せるように
なります。
私は、
それ自体を悪いことだとは
思っていません。
むしろ、
思考の作業を
AIへ任せられるからこそ、
人間は自分にしか
分からない感覚や体感を
もっと大切にできる
可能性があります。
ただし、
自分の感覚を見ないまま、
思考だけで生きている状態で
AIへ依存すると、
外から出てくる答えを
そのまま自分の答えに
してしまう危険もある。
便利になるほど、
自分で選んでいる
つもりなのに、
本当は選ばされている
ということも
起きるかもしれません。
だからこそ、
これから必要なのは、
AIを遠ざけることではない。
AIを使いながら、
最後の司令塔を
自分の感覚へ戻すこと。
思考と感覚を
敵同士にするのではなく、
思考はAIも含めて使い、
最後にどちらへ進むかは、
自分の人生から
確かめていく。
私は、
その関係がこれから
ますます大切になると
考えています。
だから意’sも、
完成して終わるものではありません。
観測する。
確かめる。
また問い直す。
私自身も、
これからずっと
探究を続けます。
そして、
同じように
自分自身の人生を
探究する人が
世界中に増えていったら
面白い。
自分の本意を知る。
自分の人生の方向を
少しずつ確かめる。
自分のテーマを生きる。
そこで生まれた価値を、
また誰かへ渡す。
その人が受け取った
ものから、
また新しい価値が
生まれる。
私は、
そんな循環を
見てみたいと思っています。
一人の小さな気づきが、
その人の人生では
大きな意味を
持つことがあります。
もし、
意’sから
受け取った何かが、
あなたの人生で
一つでも価値に
なったなら。
その時、
それは私にとっても
新しい価値になります。
この価値の連鎖を、
一緒につくっていけたら
嬉しいです。
この探究をもっと見たい方へ
ここまで見てきたのは、
「いくら持っているか」
ではなく、
自分の人生で
何を価値として生き、
何を誰かへ
渡していくのか、
という問いでした。
では、
意’sではこの探究を
実際にどのような形で
受け取れるのでしょう。
次は、
無料観測、意’sの観測、
意’sの道しるべが、
それぞれ何を
するものなのかを
全体の地図として
見ていきます。
[商品案内・全体像]
この探究をもっと見たい方へ