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なぜ「意」という一文字だったのか

なぜ「意」という一文字だったのか

音、心、日本語、縄文。

別々だったものが、なぜ一つの字へ戻ってきたのか。

 

なぜ「意」だったのか

 

意’sの中心には、

「意」という一文字が

あります。

 

けれど私は、

最初からこの字の意味を

調べ、

理論として選んだ

わけではありません。

 

順番は、むしろ逆でした。

 

 

人生の中で、

何度も同じ問いへ戻る。

 

成功しても、

なぜか満たされない。

 

分かっているのに、

同じ選択を繰り返す。

 

 

誰かには

説明できなくても、

自分の中では

「これは違う」と

感じることがある。

 

そして、

言葉になる前から

なぜか気になるものがある。

 

私は長いあいだ、

その「なぜか」を

捨てずに持ってきました。

 

 

その途中で、

一つの音が残ります。

 

さらに後になって、

「意」という字が残った。

 

縄文。

日本語。

本音。

本心。

本意。

真意。

 

ばらばらだったものを

一つずつ見直していくと、

 

不思議なくらい

「意」の周りへ

戻ってきたのです。

 

 

私は、この重なりを

ただの文字遊びでは

終わらせません。

 

だからといって、

漢字が人生の真理を

証明しているとも

考えていない。

 

 

調べられるところは調べる。

事実と自分の考えは分ける。

 

その上で、

なぜ私がこの一文字へ

何度も戻ったのかを、

ここでは

たどってみます。

 

答えがなくなっても、残るものがあった

 

私はこれまで、

何度も自分の人生が

ひっくり返るような

経験をしてきました。

 

うまくいっていたものが、

突然うまくいかなくなる。

 

信頼していた人が離れる。

 

 

自分では想像していなかった

言葉で、

人から見られる。

 

住む国まで変わる。

 

それまで正しいと

思っていたものが、

正しいのかどうかさえ

分からなくなることも

ありました。

 

 

そんな時、

頭の中には

たくさんの声が

出てきます。

 

「もうやめた方がいい」

 

「まだ終わっていない」

 

「間違っていたのか

 もしれない」

 

「それでも、

 こっちへ行きたい」

 

どれが本当の自分なのか。

 

私自身、

ずっと分かりませんでした。

 

 

でも不思議なのは、

 

状況が変わっても、

国が変わっても、

周りにいる人が

変わっても、

 

何度も戻ってくる感覚が

あったことです。

 

 

理由は説明できない。

 

けれど、

なぜか気になる。

 

離れても、

またそこへ戻ってしまう。

 

私は長い間、

こういうものを

うまく言葉に

できませんでした。

 

 

そして後になって、

 

「意」

 

という一文字を

眺めるようになります。

 

 

この文字には、

 

「心」と「音」がある。

 

もちろん、

漢字の成り立ちを

それだけで

説明できるわけでは

ありません。

 

 

それでも私には、

 

言葉になる前の、

心の内側にある何か

 

を考えるための文字として、

 

「意」が

妙にしっくりきたのです。

 

 

この一文字を入口にして、

私は日本語そのものを

見直すようになりました。

 

目の前に「こころ」があった

 

ある時から、

一つの漢字が

妙に気になります。

 

「意」

 

なぜ、この字なのか。

 

最初は分かりません。

ただ、目に入るたびに残る。

 

 

そして調べていく中で、

あらためて気づきます。

 

この字には、

見たまま「心」が

入っている。

 

私は、ここで

一度止まりました。

 

 

音のことを

考え続けてきた自分が、

次に惹かれた字の中に、

 

「こころ」を

見つけたからです。

 

さらに成り立ちを調べると、

もう一つ面白いことが

出てきます。

 

 

漢字ペディアでは、

 

「意」は

心と音から成る

会意文字と

説明されています。

 

しかも、

言葉を耳にして、

その気持ちを心で察する。

 

そこから

「意」の意味を表す、

という説明です。

 

 

音。

心。

意。

 

私が先に見つけていたのは

音で、

その後に残った文字は

意だった。

 

この順番を知った時、

私はかなり驚きました。

 

虫の声の話を、ふと思い出した

 

ここで昔聞いた話を

思い出します。

 

「虫の羽音や鳴き声を、

音色のように聞くのは

日本人だけらしい」

 

そんな話を、

どこかで耳にしたことが

ありました。

 

 

当時は、

本当かどうかまで

調べていません。

 

けれど「意」を調べ、

音と心の話へ戻ってきた時、

 

急にこの記憶が

つながりました。

 

そこで、

あらためて

調べてみたのです。

 

 

すると、

 

「日本人だけ耳の形が違う」

 

といった医学的な根拠は

確認できませんでした。

 

ところが、

 

見つかったのは

むしろもっと

面白い話です。

 

 

2016年の

NIRS研究では、

 

日本語を母語とする人と、

そうでない人に、

話し声、音楽、虫の音を

聞かせています。

 

分析対象は33人。

小さな研究ではあります。

 

 

その中で、

日本語母語話者の80%は、

 

虫の音を

言語を処理する側と

同じ側で

優位に処理しました。

 

一方、

 

日本語を母語としない

参加者では、

 

62%が虫の音を

音楽を処理する側と同じ側で

優位に処理しています。

 

 

もちろん、

これ一つで

日本人全員を決めることは

できません。

 

でも私は、

ここにかなり惹かれました。

 

鈴虫の「声」。

蝉の「声」。

 

私たちは自然に、

虫の音へ「声」という字を

使います。

 

 

ただの雑音ではなく、

何かを伝える音のように

受け取ってきたのでは

ないか。

 

少なくとも、

そう考える材料は

ありました。

 

日本語は、音だけでも意味だけでもない

 

この流れでもう一つ、

日本語そのものを

見直してみます。

 

 

日本語では、

 

漢字と、

ひらがな・カタカナを

一つの文の中で

一緒に使います。

 

文化庁の資料では、

 

漢字は主に

「実質的な意味」を

表す文字。

 

かなは、

主に音を表す文字として

説明されています。

 

 

つまり私たちは、

普段から

 

「意味を持つ文字」と

「音を持つ文字」を

 

混ぜて読んでいる

わけです。

 

たとえば、

 

「雨がしとしと降る」

 

と書けば、

 

「雨」という漢字で

 

何の話かを

一瞬でつかみ、

 

「しとしと」という音で

降り方まで感じ取る。

 

 

「ざあざあ」なら強い雨。

「ぽつぽつ」なら降り始め。

 

同じ雨なのに、

音が変わるだけで

頭の中の景色まで

変わります。

 

 

国立国語研究所も、

日本語はオノマトペを

とても好む言語だと

紹介しています。

 

しかもオノマトペは、

実際の音だけでは

ありません。

 

「きらきら」

「ふわふわ」

「もやもや」

 

音のない状態まで、

音の形で表します。

 

 

これは日本語だけの

能力ではなく、

 

世界にはオノマトペが

豊かな言語が

ほかにもあります。

 

それでも、

 

日本語の中で

音と感覚が深く

結びついていることは、

十分に見えてきます。

 

 

私はここで、

また「意」の字へ

戻りました。

 

音を受け取り、

心で何かを感じる。

 

その間にあるものを、

昔の人は

 

「意」と呼んだのだろうか。

 

これは私の問いです。

 

けれど、問いの根には

実際の日本語の構造が

あります。

 

日本人は、意味まで文字に作ってきた

 

さらに面白いのが、

漢字の「会意」という

作り方です。

 

 

会意は、

 

複数の要素の意味を

組み合わせ、

新しい意味を表す

考え方です。

 

「意」も、

その一つとして

説明されています。

 

 

そして日本では、

漢字の仕組みを使い、

日本独自の文字も

作られました。

 

たとえば「峠」。

 

山。

上。

下。

 

山を上り、

そこから下りへ変わる境目。

 

三つを組み合わせて、

「とうげ」という意味を

作っています。

 

 

「働」も国字です。

 

人と動を合わせ、

人が動く

「はたらく」を表す。

 

これを見た時、

 

私は日本人が漢字を

ただ受け取っただけでは

なかったことに

改めて惹かれました。

 

 

自分たちの暮らしの中で、

目にしたもの、

感じたこと、

必要だった意味を、

文字へ落としていった。

 

漢字は表意文字です。

 

一字そのものが、

意味を運ぶ力を

持っています。

 

 

だから「意」という字だけが

特別なのではありません。

 

漢字という仕組み

そのものが、

人間が感じ取った意味を

形に残す文化でもある。

 

そう考えると、

 

「意」という一文字を

中心に置くことが、

私にはさらに自然に

見えてきました。

 

文字が来る前にも、音はあった

 

ただ、ここで

忘れたくないことが

あります。

 

 

漢字が日本へ来る前から、

この列島には

人が暮らしていました。

 

当然、

話し言葉もあったはずです。

 

後に日本では、

外から来た漢字を

 

すでに使っていた日本語で

読む「訓読み」が

発達します。

 

 

文化庁の資料にも、

 

漢字を日本語として読む

音と訓の使い分けが

発達したことが

記されています。

 

「山」という文字が

来る前にも、

 

人は目の前の山を

呼んでいた。

 

「川」という字がなくても、

 

流れる水を

区別していたでしょう。

 

 

文字より先に、

音がある。

 

音より先には、

景色や感覚や暮らしがある。

 

私は、この順番が好きです。

 

 

今の訓読みが

そのまま縄文時代の

言葉だった、とは

言えません。

 

そこは別の証拠が必要です。

 

 

けれど、

 

文字が入る前から

人が音で世界を

分けていたことまで

否定する必要はありません。

 

むしろ私は、

 

その古い音の感覚が

どこまで今の日本語へ

残っているのかを

もっと知りたいと

思っています。

 

そして、縄文へ戻る

 

音をたどっていくと、

私の関心は縄文へ戻ります。

 

 

縄文時代は、

一万年以上続いた

とても長い時代です。

 

ここで私は、

 

「平和だったらしい」

 

というぼんやりした

言葉より、

 

数字を見たいと思いました。

 

人骨を調べた研究が

あります。

 

訂正後のデータは

2576人。

 

暴力に関連した死亡は、

全体で0.89%。

 

成人では1.81%でした。

 

時期別でも、

0〜3.57%です。

 

同じ論文が比較に使った

先行する狩猟採集社会の

研究では、

 

12〜14%という数字が

示されています。

 

差は小さくありません。

 

 

しかも縄文側では、

暴力の痕跡が

特定の地域や時期へ

大きく集中する形も

確認されませんでした。

 

研究者は、

 

縄文期の日本では

暴力や戦争は

一般的ではなかった、

と結論づけています。

 

 

私は、この数字に

もっと驚いていいと

思います。

 

成人の暴力死亡が

1.81%。

 

しかも、

一万年以上という時間です。

 

 

現代なら、

ニュースを開けば

戦争や暴力や対立が

どこかで起きています。

 

国家だけの話でも

ありません。

 

会社でも、家庭でも、

SNSでも、

奪う、争う、勝つ、負ける

という場面は

珍しくない。

 

 

その現代から

縄文の数字を見ると、

 

私は「理想郷」という言葉を

重ねたくなるほど驚きます。

 

これは考古学の

正式名称ではなく、

私自身の価値判断です。

 

 

ただ、

 

その驚きを

小さく書く必要もない。

 

なぜ一万年以上、

これほど低い暴力の痕跡で

社会が続いたのか。

 

彼らは何を豊かさと感じ、

何を大切にしていたのか。

 

自然なのか。

季節なのか。

共同体なのか。

祈りなのか。

音なのか。

 

 

私は、

 

ここに今とは違う

「意の向き」が

あったのではないか、

と考えています。

 

証明された歴史では

ありません。

私の探究上の仮説です。

 

 

けれど、

 

現代とはまるで違う

数字がある以上、

その問いを持つ理由は

十分にあります。

 

海外へ出て、感情の伝わり方まで違うと知った

 

日本語と音の話は、

私自身の海外経験にも

つながっています。

 

海外へ出てから、

何度か言われました。

 

「喜んでいるのか

 分からない」

 

「怒っているなら、

 怒っていると分かるように

 もっと表現した方がいい」

 

日本人同士なら、

 

声の温度や間、

少し含ませた言い方で

十分伝わると思っていた。

 

でも、相手によっては

届かない。

 

 

そこで私は、

怒っている時には

怒っていると見えるように

表現することを覚えました。

 

文化心理学には、

この経験と重なる研究も

あります。

 

日本人参加者は、

人の感情を読む時、

 

本人の顔だけでなく

周囲の人の表情にも

影響を受けやすかった。

 

視線計測でも、

周囲を見る傾向が

より強く出ています。

 

 

別の研究では、

 

日本人は感情を

抑えるべきだと

考える傾向が

比較的強かった、

という報告もあります。

 

私はこの研究を見て、

海外での違和感が

少し整理されました。

 

日本では、

言葉そのものだけではなく、

間や空気や周囲まで含めて

意味を読む場面が多い。

 

だから、

はっきり言わなくても

伝わることがある。

 

 

共有する前提が違えば、

同じ方法では届きません。

 

ここまでは文化差の話です。

 

でも私にとって、

さらに大きかったのは

その後でした。

 

 

「怒っているなら、

 怒っていることを

 示さなければ」

 

そう意識するうちに、

自分から何度も

怒りへ注意を

戻すようになったのです。

 

 

本当は怒りたい

わけではない。

 

それでも、

怒りを探し、

怒りを確認し、

怒りを表現する。

 

その時期、

私は以前より明らかに

怒りっぽくなったと

感じました。

 

 

研究がこの因果を

証明したわけでは

ありません。

 

これは、

私自身の人生で

起きたことです。

 

そして後から振り返ると、

ここにも「意」が

ありました。

 

 

何を見るか。

何へ注意を戻すか。

何を繰り返すか。

 

意は、

ただ心の奥にある

ものではなく、

 

どこへ向くかでも

人生の流れを変えていく。

 

この経験は、

意’sを作る時の

大きな材料になっています。

 

「本音」を調べたら、本当に音へ戻った

 

そして、

このページで私が

一番好きな接続の

一つがあります。

 

「本音」です。

 

日本語には、

「本心」と「本音」が

あります。

 

 

普段はどちらも、

本当の気持ちに近い意味で

使います。

 

ところが辞書を開くと、

本音の最初の意味に

本当に「音」が出てきます。

 

 

漢字ペディアでは、

「本音」の第一義は

楽器などの本当の音。

 

その次に、

本心から出た言葉、

隠している考え、

という意味が続きます。

 

 

私はこれを知った時、

また音へ戻されました。

 

本音。

本心。

 

本当の音。

本当の心。

 

文字として並べるだけでも、

とてもきれいです。

 

 

しかも「本」には、

根もと、もともと、

真実のもの、

という意味があります。

 

本音。

本心。

本意。

 

どれも「本」を

付けることで、

表面ではなく

根の方へ近づいていく。

 

私はここに、

日本語の面白さを感じます。

 

では、なぜ「本意」と「真意」があるのか

 

さらに調べると、

「本意」という言葉が

あります。

 

辞書では、

本来の意志。

本心。

本来の望み。

本来の意味。

 

そう説明されています。

 

 

意’sで使っている

「本意」という言葉と、

かなり近いところが

あります。

 

意’sでは、

ある場面で

選ばれなかったとしても

残る、

 

「本当はこうしたかった」

 

「こちらを大切に

 したかった」

 

という方向を、

本意(本音)として

観測します。

 

 

辞書から理論を

作ったのではありません。

 

先に観測構造があり、

後から言葉を調べてみたら、

 

「本来の望み」という意味が

そこにあった。

 

私は、この一致を

とても面白く感じています。

 

 

そして、

 

日本語には

「真意」もあります。

 

真意は、

 

本当の気持ち。

本心。

物事の本当の意味。

 

「真」は、

偽りではない、

本当のものを表す字です。

 

 

さらに別に、

「誠意」という言葉もある。

 

誠意は、

まごころをもって

正直に向き合おうとする

気持ちです。

 

同じ「意」の周りに、

違う角度の言葉がある。

 

本意――本来の意志や望み。

真意――本当の気持ちや

誠意――その気持ちを、

どう相手へ向けるか。

 

 

辞書が意’sを

証明しているわけでは

ありません。

 

でも私は、

この言葉の分かれ方を

偶然だから終わり、

とはしません。

 

 

もし意が、

 

一種類の単純な

気持ちだけなら、

なぜ私たちは

 

「本」「真」「誠」と

違う字を重ねてきたのか。

 

そこには、

 

人の内側を一つでは

捉えきれない感覚が、

昔からあったのではないか。

 

私は、そう考えています。

 

音と心。その間に「意」があった

 

ここまでを並べると、

一つの線が見えてきます。

 

「意」という漢字には、

心が入っている。

 

成り立ちを調べると、

音と心を合わせた字として

説明される。

 

日本語は、

意味を持つ漢字と

音を表すかなを混ぜて使う。

 

 

オノマトペでは、

音のない状態にまで

音を与えて感じ取る。

 

日本で作られた国字には、

暮らしの意味を

文字の組み合わせで

表したものがある。

 

 

漢字が来る前にも、

この列島には

言葉と音があった。

 

その音は、

 

縄文という

一万年以上続いた

時代の中で、

 

人と人、人と自然が

関わりながら、

育まれていったのかも

しれません。

 

 

もしかすると縄文は、

私たちが思っている以上に、

平和というものを

長く保った時代だったのかも

しれません。

 

私はそこに、

日本語の遠い記憶が

残っている可能性を

感じています。

 

 

日本語には、

 

本音。

本心。

本意。

真意。

誠意。

 

心の内側にあるものを

表す言葉が、

驚くほどたくさんあります。

 

一つ一つは、

別の研究、別の時代、

別の話です。

 

 

これらが一本の

因果関係として

証明されたわけでは

ありません。

 

それでも私には、

無関係には

見えませんでした。

 

音。

心。

意味。

注意。

望み。

 

そして、

何度離れても

戻ってくる方向。

 

二十五年以上、

 

人生の中で拾ってきた断片を

並べ直した時、

 

「意」という一文字の周りに

驚くほど多くのものが

集まったからです。

 

AIは、答えではなく整理の道具になった

 

ここまでの材料は、

私一人の頭では

同時に扱いきれません

でした。

 

成功した経験。

満たされなかった時期。

崩壊。

回帰。

海外での文化差。

怒りへ注意を

向け続けた経験。

Sora no Oto。

縄文。

日本語。

本音。

本意。

真意。

 

一つずつなら考えられます。

 

でも全部を並べ、

比較し、

矛盾を探し、

 

違う研究と

照らし合わせるには

限界がありました。

 

 

そこでAIを使います。

 

AIに答えを

決めてもらうためでは

ありません。

 

自分が人生で拾った

問いを渡す。

 

反証させる。

別の見方を出させる。

根拠を探す。

辻褄が合わなければ崩す。

 

その往復を重ねる中で、

ばらばらだったものが

少しずつ構造に

なっていきました。

 

私は、それを

「意’s」と呼んでいます。

 

だから私は、この一文字を偶然として捨てない

 

私は、

 

「意」という字に

人生の答えが

全部入っている、

とは考えていません。

 

縄文だけに答えがあるとも

言いたいわけではない。

 

日本語だけが特別だと

証明したいのでも

ありません。

 

 

私が伝えたいのは、

もっと自分の人生に

近いことです。

 

人には、

言葉になる前から

感じているものがあります。

 

「なんとなく違う」

 

「なぜか気になる」

 

「本当はこうしたい」

 

「何度離れても、また戻る」

 

私は、それを

何度も無視し、

何度も拾い直してきました。

 

 

そして今は、

 

すぐ正解や間違いに

分ける前に、

観測する価値があると

考えています。

 

何へ注意が向いているのか。

 

何に意味を置いたのか。

 

何を守ろうとしているのか。

 

その反対側で、

本当は何を

選びたかったのか。

 

違う時期、違う人間関係、

違う選択の中でも、

何度も同じ方向へ戻るのか。

 

私が「意」という一文字に

惹かれ続けた理由は、

これらの問いを

一つの場所に

置けたからです。

 

 

漢字の証明ではありません。

宗教でもない。

 

私自身の人生と、

言葉と、文化と、歴史と、

研究を横断して、

何度崩しても

残った接続点です。

 

だから私は、

この一文字を

偶然として

捨てませんでした。

 

この一文字から、人生の構造へ戻る

 

「意」は、

私にとって

終着点ではありません。

 

入口です。

 

 

音から始まり、

心へつながる。

 

本音、本意、真意へ進み、

最後は実際の人生の

選択へ戻る。

 

大切なのは、

漢字を知ることでは

ありません。

 

今、

自分の中で

何が動いているのか。

 

何が選ばれ、

何が選ばれずに残ったのか。

 

何へ注意が

戻り続けているのか。

 

そして、

その反対側で

何を望んでいるのか。

 

 

意’sは、

 

それを自分の人生から

観測するために

作った構造です。

 

次は、

 

この「意」が

実際の人生で

どう動くのかを、

 

意’sそのものの

仕組みとして

見ていきます。

 

[意’sとは]

 

 

 

 

 

 

 

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