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お金の正体

お金の正体

 

人生という物語の中に置かれた、大きなクエストなのではないか

 

前のページでは、

もし人生が

一つの物語だとしたら、

 

何度も現れるテーマや、

なぜか避けて通れない

分岐には、

 

何か意味が

あるのかもしれない、

 

という仮説まで

見てきました。

 

 

では、その物語の中で、

今を生きる私たちの多くが

 

避けて通れないものは

何でしょう。

 

 

その一つが、お金です。

 

お金は、

今を生きる私たちにとって、

 

悩みの根幹とも言えるほど

大きな存在なのかも

しれません。

 

 

今、私たちは

「資本主義」という

 

大きなフィールドの中で

人生を迎えています。

 

生まれたときから

そこにあるため、

 

あまり疑問を持つことは

ありません。

 

 

働く。稼ぐ。支払う。

貯める。増やす。

 

生活をするためには

お金が必要で、

 

より自由に

生きようとすれば、

 

さらにお金が

必要になる。

 

それが、あまりにも

当たり前になっています。

 

 

けれど、

少し長い時間軸で

 

眺めてみると、

 

今のようにお金が

人生の中心近くに

置かれている時代が、

 

人類の歴史全体から

見れば

 

ずっと続いてきた

わけではありません。

 

 

日本でも、

縄文時代のように、

 

今とはまったく違う

共同体や経済の中で

 

暮らしていた時代が

あります。

 

貨幣の形も、

価値の交換の仕方も、

 

時代によって

変わってきました。

 

 

それなのに、

今を生きる私たちにとって、

 

お金は人生の大部分を

 

左右するほど

大きなテーマに

 

なっています。

 

 

私自身も、

長い間そうでした。

 

 

「お金を稼ぐことが

自由になることだ」

 

「お金を稼ぐことが

成功することだ」

 

そう考えていました。

 

 

だから、

お金を目指しました。

 

そして結果として、

実際に何億円という

 

大きなお金を

手にしました。

 

 

ところが、

その時に感じたのは、

想像していたような

 

「人生のゴールへ着いた」

という感覚では

ありませんでした。

 

むしろ、

ある種の欠乏でした。

 

 

あれだけ望んでいた。

 

あれだけ求めていた。

 

あれだけ

追いかけていた。

 

そして、

ようやく手にした。

 

なのに、そこで

気づいてしまいました。

 

 

「これがゴールではない」

 

そこには、

何かが足りませんでした。

 

そして、そこから

私の人生の崩壊が

始まっていきます。

 

 

今振り返って、とても興味深いことがあります。

 

私は、

お金が欲しいと思い、

 

お金を目指し、

行動した結果、

 

お金を手に入れました。

 

 

ところが、その後は

同じようにお金を求め、

 

同じように

行動しているつもりなのに、

 

今度はお金を

失い続けました。

 

 

「お金を求めた結果、

手に入れた現実」と、

 

「お金を求めた結果、

失った現実」

 

 

表面的に見れば、

 

やっていることは

似ています。

 

しかも後者の私は、

すでに一度

 

成功を経験していました。

 

普通に考えれば、

一度成功した人間の方が

有利なはずです。

 

 

成功するまでに

何をしたのかも

 

知っている。

 

どう動けばいいのかも

知っている。

 

成功体験という

強い材料まで

持っている。

 

 

にもかかわらず、

私は負のループに

 

入りました。

 

 

同じ選択を

しているつもりでした。

 

同じ行動を

しているつもりでした。

 

それなのに、

現実はまったく逆へ

進んでいったのです。

 

 

今なら、その違いは

かなりはっきり

見えます。

 

一言で言えば、

 

自分の中の「意」が、

どこに向いていたのか。

 

その違いでした。

 

 

お金を得ていった

時期の私は、

 

ただ

 

「お金がないから欲しい」

と思っていた

わけではありませんでした。

 

もちろん、

お金は欲しかった。

 

でも、それ以上に

意が向いていたのは、

自分の可能性でした。

 

 

自分にも

できるかもしれない。

 

もっと

できるかもしれない。

 

これから何が

起きるのだろう。

 

どこまで

行けるのだろう。

 

 

未来が開けている。

 

そんな感覚でした。

 

楽しかった。

 

可能性があった。

 

自分自身の未来に対して、

明るい方向へ

「意」が向いていました。

 

 

ところが、

お金を失っていった

時期は違いました。

 

そこにあったのは、

欠乏でした。

 

 

うまくいっていない自分。

 

失っている自分。

 

どうにかしなければ

ならない自分。

 

「このままではまずい」

 

「早く取り戻さなければ

ならない」

 

そういう恐怖が

前提にありました。

 

 

可能性が

開いているのではなく、

閉ざされていく感覚。

 

その閉ざされた状態に、

自分の「意」が

集まり続けていました。

 

 

そして、その状態のまま、

過去の成功体験をもとに

 

同じような選択をし、

同じような行動を

繰り返しました。

 

 

行動だけを見れば

似ている。

 

でも、その行動が

生まれている場所は、

 

まったく

違っていたのです。

 

 

片方は可能性。

 

片方は欠乏。

 

片方は開いている。

 

片方は閉じている。

 

片方は楽しい。

 

片方は

「どうにかしなければ

ならない」

 

 

同じ

「お金を得たい」

 

という言葉でも、

その内側の状態は

 

正反対でした。

 

 

ここで見ると、

お金の問題も、

 

金額だけの話では

なくなります。

 

何を手に入れたいのか。

その先で、

本当はどうしたいのか。

 

怖さがなかったとしたら、

本当は何を

選びたいのか。

 

 

同じ人の中でも、

時期や場面によって

答えは変わります。

 

それでも、

お金、仕事、

人間関係、挑戦と

 

場所を変えて

見た時に、

 

「本当はこうしたい」

「これは違う」

 

という似た方向が

何度も現れるとしたら。

 

その本意の重なりは、

自分でもまだ

 

気づいていない

人生の方向を見る材料に

 

なるかもしれません。

 

 

そして、

私が経験した現実も、

 

正反対の方向へ

進んでいきました。

 

 

ここで、

お金について

 

昔から何度も語られてきた

一つの見方が、

 

違って見えるように

なりました。

 

 

「お金はエネルギーである」

 

「お金は循環である」

 

経済的に豊かな人、

思想家、

 

スピリチュアルな領域で

語る人、

 

チャネラーと呼ばれる

人まで、

 

表現は違っていても、

似た考え方が

出てくることがあります。

 

もちろん、

これを科学的な事実として

 

断定する話は

ありません。

 

 

ただ、もし

「循環」という見方を

 

一つの仮説として

 

置いてみると、

自分の経験と

 

妙につながるところが

ありました。

 

 

お金が足りない。

 

もっと欲しい。

 

失いたくない。

 

どうにかしなければ

ならない。

 

取り戻さなければ

ならない。

 

 

そこには執着が

生まれます。

 

執着しているものは、

握りしめます。

 

握りしめれば、

循環しにくくなる。

 

 

もし本当にお金に

「循環」という性質が

 

あるのなら、

この構図は

分かりやすいです。

 

 

失うのが怖くて

握りしめる。

 

すると滞る。

 

滞るから、さらに

「入ってこない」と

感じる。

 

入ってこないから、

もっと握りしめる。

 

そして、さらに

欠乏を感じる。

 

 

私は自分自身の経験を

振り返ると、

 

この流れには

頷ける部分があります。

 

 

けれど、

お金について

考えるほど、

 

もっと大きな問いに

戻されました。

 

そもそも、

私たちは何のために

生きているのか。

 

 

少なくとも私は、

お金のためではないと

思っています。

 

これは一度、

大きなお金を実際に

 

手にしたからこそ、

より強く感じることでも

あります。

 

 

たとえば、

人生の終わりが近づいた時を

想像してみます。

 

その時、最後まで

考えているのは

何でしょう。

 

 

もっとお金を

稼げばよかった。

 

もっと預金残高を

増やせばよかった。

 

もっと資産を

増やせばよかった。

 

そう思う人も

いるかもしれません。

 

 

一方で、

人生の終末について

 

語られた記録や、

臨死体験の報告などには、

 

人生そのものを

 

振り返る話が

繰り返し現れます。

 

 

もっと人生を

楽しめばよかった。

 

もっと自分らしく

生きればよかった。

 

もっと大切な人との時間を

大切にすればよかった。

 

 

自分の人生を

一つのまとまりとして

 

振り返った、という

報告もあります。

 

 

そこにあるのは、

結局、人生そのものです。

 

 

どんな経験をしたのか。

 

何を感じたのか。

 

誰と出会ったのか。

 

どう生きたのか。

 

何を選んだのか。

 

そう考えると、

不思議です。

 

 

人生の最後には

それほど重要では

なくなるかもしれない

 

ものに、

人生の途中では、

 

ものすごく大きな力を

与えている。

 

 

ここで、もう一つ

感じていることがあります。

 

 

人生を謳歌している人。

 

豊かな人。

 

これは、

お金をたくさん持っている

人だけを意味しません。

 

お金を持っている、

持っていないにかかわらず、

 

人生そのものが

豊かに見える人たちです。

 

 

そういう人たちは、

お金そのものに

 

人生を握られていないことが

多いように感じます。

 

 

お金がどうでもいい

わけではありません。

 

必要なら稼ぐ。

 

必要なら使う。

 

必要なら増やす。

 

でも、お金そのものに

 

人生を決められていない。

 

 

ここに、とても大きな

違いがあるのでは

ないでしょうか。

 

 

ここからは、一つの仮説です。

 

もし、

このお金という

存在そのものに、

 

この時代ならではの

意味があるとしたら

どうでしょう。

 

私たちは、

この時代に生まれました。

 

そして、この時代では、

お金がとても大きな力を

持っています。

 

 

欲しい。

 

失いたくない。

 

もっと必要だ。

 

これがなければ

自由になれない。

 

これがなければ

幸せになれない。

 

これがなければ

安心できない。

 

そう思いやすい

構造の中にいます。

 

 

つまり、お金は、

とても「執着」が

 

集まりやすい存在でも

あります。

 

 

欲。

 

恐怖。

 

不足。

 

比較。

 

成功。

 

失敗。

 

社会的評価。

 

自由。

 

安心。

 

それらの多くが

お金と結びつきます。

 

 

だとしたら、

お金とは単なる

交換手段以上の役割を、

 

この人生の中で

持っているのでは

ないでしょうか。

 

 

もし、

私たち一人一人が

何らかのテーマを持って

 

人生を生きていると

仮定します。

 

そして、そのうえで、

わざわざ「お金」が

 

これほど大きな意味を持つ

 

時代に生まれてきたと

したら。

 

 

逆から考えれば、

 

お金そのものが、

人生の一つの

 

大きなクエストに

なっている。

 

そう見ることもできます。

 

 

ただし、これは

「お金を稼ぐことが悪い」

 

という話では

ありません。

 

論点は、

そこではありません。

 

 

重要なのは、

自分がお金を、

 

どの目線から

見ているのか。

 

お金を扱う側なのか。

 

それとも、

お金に扱われる側なのか。

 

この違いは

大きいと思います。

 

 

お金がないから不安になる。

 

お金が減ったから

恐怖になる。

 

お金が増えたから

自分には価値があると

 

思う。

 

お金がないから

自分には価値がないと

 

思う。

 

お金によって、

自分の状態が

決められていく。

 

 

これは、

お金を使っているように

見えて、

 

実際にはお金によって

自分が動かされている

状態とも言えます。

 

 

では、お金を扱う側に回るとは何でしょう。

 

思考を

自分そのものだと

 

思い込まず、

観測する対象として

 

分けて見るように、

お金もまた、

 

自分自身から

一度分けて見る。

 

 

お金を、

自分の価値そのものに

 

しない。

 

お金を、

人生そのものにしない。

 

 

一つのエネルギー。

 

一つの循環。

 

一つの道具。

 

一つのテーマ。

 

一つのクエスト。

 

そのようなものとして

見ることができた時、

 

お金との関係は

変わっていくのかも

しれません。

 

 

私は、自分自身の人生で、

その両方を経験しました。

 

 

お金を追いかけ、

結果として大きなお金を

 

手にした時期。

 

そして、お金を追いかけ、

結果として大きなお金を

 

失い続けた時期。

 

 

同じ

「お金を求める」

 

という行為でも、

その内側にある「意」が

 

 

違えば、

まったく違う現実を

経験しました。

 

 

だから今は、

お金そのものを

 

人生のゴールとして

見ることはありません。

 

 

むしろ、

 

お金とどう向き合うのか。

 

お金をどう扱うのか。

 

お金によって

自分を動かされるのか。

 

それとも、

自分が一つの道具として

お金を扱うのか。

 

 

そこに、

この時代を生きる

 

私たちにとっての

大きなテーマが

 

あるのではないかと

思っています。

 

 

そして、そのテーマは

全員同じとは

限りません。

 

ある人にとってお金は

安心との関係を

 

映すかもしれない。

 

別の人には

自由、評価、挑戦、

 

家族、可能性との関係が

強く現れるかもしれない。

 

 

意’sでは、

お金だけを切り離して

答えを出すのではなく、

 

こうした

一見別々に見える場面を

 

横断し、

そこで何を選び、

何が選ばれずに

 

残ったのかを見ます。

 

もし、その中に

何度も共通して

現れる方向があるなら、

 

人生の根幹に

なり得るかもしれない

 

「真意」の候補として、

時間をかけて

確かめていきます。

 

 

もしも人生そのものが

一つの物語だと

するならば。

 

お金とは、

その物語の中に置かれた、

 

一つの大きなクエスト

なのかもしれません。

 

それが、今の私から見た

「お金の正体」の

一つの仮説です。

 

 

お金で繰り返してきた

負のループも、

 

ただ

消すべき失敗として

見るだけではなく、

 

そのたびに何を求め、

何を怖れ、

 

それでも何を

望んでいたのかまで

 

見直すと、

別の意味を持つことが

あります。

 

そこから、

まだ自分でも

気づいていなかった

 

真意の流れや、

これからの人生の可能性が

 

見えてくるかもしれない。

 

 

もちろん、

一つのお金の体験だけで

 

人生の答えを

決めるものではありません。

 

違う場面、

実際の選択、

その結果、

 

戻った時の状態まで

 

繰り返し

確かめながら、

 

一緒に人生そのものを

 

探究していきます。

 

 

この探究をもっと見たい方へ

 

ここまで見てきたのは、

お金を増やす方法ではなく、

 

お金を人生の中で

 

どう扱っているのか、

という問いでした。

 

 

けれど、

お金そのものが

人生のゴールでは

 

ないとしたら、

次に残る問いがあります。

 

 

では、

私たちが人生の中で

 

本当に受け取り、

 

渡している「価値」とは

何なのでしょう。

 

 

次は、

私自身が経済的な成功と

 

崩壊の両方を経験する中で、

何度も戻ることになった

 

「人生の価値」という問いを

見ていきます。

 

[人生の価値とは]※公開URL未確定。WordPress実装時に接続先を確定する。

 

この探究をもっと見たい方へ

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